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かもめ
2021/6/15 12:27
随筆 「山にこがれて/昭和の子」
1)
昭和27、8年の頃の夏、幼かった私は母や叔母達に連れられ五つ六つ先の山の湯治場に行った記憶があります。
日頃 電車に乗って出掛けることなど殆んどなく、それだけでワクワクと嬉しくずっと車窓からの風景を眺めていました。
手を伸ばせば届くほど近くに咲く大輪の山百合の香りと、どこまでも続く木立の緑の匂い、それらは幼い私が初めて感じた豊かな山の自然でした。
私が生まれ育った秩父は山々に囲まれた盆地で、四季折々の自然はいつも身近にあり、自宅からは威風堂々とした秩父のシンボル武甲山を間近に眺め、その青い遥か山なみの向こうには奥秩父縦走ルートの峰々が連なり、そこに名前だけは知っていた雲取山もあることを。
小学校五年生の時の恩師は山歩きと俳句の好きな男先生で、授業中、折に触れ語ってくれた山行きの話はいつしか私の心の中にまだ見ぬ高山への憧れがうまれ、きっといつか私も行ってみたいと思うようになりました。
中学生になると私の通っていた学校では毎年三年生の夏休みに希望者のみ参加の一泊二日の雲取山登山が行事となっていました。
参加するには子供の私には大金と思えた費用を払わなくてはならず、、、
その当時の我が家は、戦後間もない頃始めた織物工場を営んでおり数人の従業員と母・姉三人の家族総出で、染色から機織りまでの数工程をこなし、朝八時から夕方六時まで、休みは月二回という今では考えられないほど過酷な仕事場でした。
そして戦後の好景気も昭和三十年代後半の頃には翳りが見え始め、昼間の高校進学も諦めなくては成らないのではと、とても雲取山行きの費用を出して欲しいとは子供心にも憚られ、直ぐ上の姉達も行くのを諦めているのにと…悩みながらもどうしても諦めきれない私は恐る恐る父に切り出したものです。
「夏休みの間、工場の仕事を手伝うから登山のお金を出して欲しい」と。
真夏、低いトタン屋根の熱気にあぶられた工場の中は冷房など勿論無く、皆汗だくで首に手拭いを引っかけ汗を拭き拭きベテランの大人達に交じって働き、やっと雲取山登山行きのお金を貰ったときの嬉しさといったら。
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3
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2
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かもめ
2021/6/15 12:25
2)
八月の始め、待ちに待った登山の日、三峯山のケーブルカーを降り霧藻ヶ峰までの山道を歩く、、その清烈な空気の中、原生林までの山道は小さな水筒はすぐに空っぽ、汗みどろの首筋に吹く風の心地よさといったら、、圧倒的な緑の大パノラマは、雑誌で見たことのあるスイスアルプスの似て、スイスに憧れていた私にとっては夢の風景でした。
以前先生が話してくれたとおり、オオシラビソの枝に下がるサルオガセのフンワリした実物を見つけて少し感動したり。
長時間の登山はもちろん想像以上に苦しかったけれど、学年でもスポーツ万能の優等生で有名だった男子が脚の痙攣で先生に抱えられ泣いている姿を目撃したときは驚いた、、私の方が元気?!
長い行程ではあったけれどその疲れも忘れさせるほどに自然との出会いは圧倒的であり、友人たちと励まし合い労りあってみんなで辿り着いた山頂の展望。
その達成感と喜びは、その後の私の生き方の選択にしっかりとアンカーになったのは間違いない。
山小屋での飯盒炊さん、焚き火を囲んで歌った山の歌、フォークダンス、、
星降る夜空にかかる天の川、
そして夜明けに見た東京湾辺りから昇る黄金色の朝焼けと太陽の眩しさには知らず知らずに涙ぐんでしまう。
やはり山の彼方にはこんなに素晴らしい世界があったんだ。
此処に来られて本当に良かったと心から思うことができた。
、、
翌日、奥多摩駅に着く頃には疲れと同時に、遥か遠くなってしまった山々の姿と感動がこのまま消えていくようで寂しく、すっかり無口になっていた自分、けれど又この次には重なる雲の向こうに見えた山へ絶対行こうと決めたのもその頃からでした。
これが十五歳の夏休みに経験した私の「山にこがれる」きっかけでした。
断:転載
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1
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かもめ
2021/6/15 7:41
気まぐれ、夢想家、人見知り
気むずかしいのでヨロシク (ФωФ)
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