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蓮舫


クラリオンガールからタレント、そして参議院議員へ。

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匿名
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[36] 匿名

2009/11/13 10:26

あの白髪のおばさん、可哀相だった。



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[37] 匿名

2009/11/13 10:39

>>36 同感です 話を聞く気がないならあんなにたくさんの人を呼び出さなければいいのに



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[38] 匿名

2009/11/13 12:27

あれくらいあって良いと思います。私達の払った税金の使い道なんですから、あれくらい怖いくらい真剣になってもらわなきゃ逆に困ります。



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[40] 匿名

2009/11/13 17:39

蓮舫さんは凄いね、美人で口もたつ、近寄りがたい感じ。おじんは、やっぱり、デブ女に行っちゃうな‥そんで詐欺にあうか‥



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[41] 匿名

2009/11/13 20:57

蓮舫さんきれいだけど、ちょっと驚き「シェ?イ」



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[42] 匿名

2009/11/14 10:08

>>38 はなっから全部潰す感じでしょ?良いものにはお金がいってもいいはず。はなっから聞く気なしの人



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[43] 匿名

2009/11/14 10:58

何人?



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[44] 匿名

2009/11/14 11:41

怖いくらい議論する事も大切だろうけど人の意見に耳を傾ける事も大切です。あれじゃ独裁者となんらかわりません



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[45] 匿名

2009/11/14 12:00

>>36確かに かわいそうでした しかし まくしたてるね あの人に任せないほうが いいわ 普段も人の話聞かんのかな



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[46] 匿名

2009/11/16 15:10

 「事業仕分け」の映像は、なんだかものすごい。

 ニュース番組の編集方針が、印象的な場面を連続再生する形式を踏んでいるということもあるのだろうが、それにしても強烈だ。

 特に、各局のニュース番組が繰り返し紹介していたカット(蓮舫議員が「国立女性教育会館」の理事長さんを問い詰める一幕)は、アメリカの法廷ドラマ(←ただし低予算)みたいだった。

 が、その場面を活字で再現しようとすると、うまくいかない。 
 
「民間の利用はありますか?」
「あります」
「稼働率は?」
「私の話も聞いてください。一方的にただ質問に答えろというのは心外です」

 ……と、文字にしてしまうとこれだけになる。
 迫力を欠いている。
 なんだか牧歌的なやりとりであるようにさえ読める。
 
 というのも、私がテレビの録画から聞き取ったこの字面からは、あのやりとりのエッセンスがほとんどすべて抜け落ちてしまっているからだ。

 具体的に、映像の言葉とテキストの文字では、どこが違っているのだろうか。
 以下、テキスト化できなかった要素を具体的に列挙してみる。

1. 蓮舫議員の声の「張り」:あのトーンは「ひざまずいて私の靴をお舐め!」の声だ。ああいう声の人間に問い詰められると、普通の人間はそれだけで心が折れる。新入社員の3割ぐらいは、たぶん泣く。

2. 対話の間:「あります」の語尾がまだ発声し終わらないうちに、「稼働率は?」と、次の質問が畳みかけられている。このおっかぶせるタイミングでの問いかけは、質問者が回答者の返答を聴いていないことを意味している。つまり、両者のやりとりは「対話」であるよりは「尋問」であり、それ以前にいじめに近いということだ。あるいは、この事業仕分けというイベントの主旨は一種の公開処刑であるのかもしれない。

3. 発言後の蓮舫議員の表情:関西の人たちが言う、いわゆる「どや顔」だと思う。「どうだ。恐れ入ったか?」というキメの表情。たとえば、印籠を出す時の格さんの表情。遠山金四郎の桜吹雪一件落着顔。土下座で受け止めるほかに対応のしようがない。歌舞伎の大見得にも通じる一種の勝利宣言なのだと思う。

4. 仕草:蓮舫議員は、ボディーアクションの大きい語り手でもある。左右対称に動くことの多い両手と、左右に回転する首は、着ぐるみの中の役者の演技に似ている。「猿の惑星」のコーネリアスの会話法がまさにそれだった。手話というより体話。言葉を後押しする肉体言語。これらのアクションは、議員の言葉に言語化不能なニュアンスを付加している。

5. 歯:ツブの揃った過剰に白い歯並び。差し歯であろうか。谷崎潤一郎が「陰翳礼賛」の中で「便所のタイルみたいな」と形容した、一点のカゲリもないアメリカンビューティーのこれ見よがしの歯。口ごもることを嫌い、言いよどむことを恥辱と考える人々による、正面からの直言。その舌鋒を支える城壁としての前歯。

 こういう対象を目の前にすると、つくづく活字の無力を思い知らされる。
 あの蓮舫議員のたたずまいは、絶対に文字では伝わらない。「筆舌に尽くしがたい」というやつだ。ペンには舌があるばかり。歯もなければ唾も飛ばない。舐めることはできても咀嚼はできない。唾棄も。

 とはいえ、事業仕分けの狙いは非常にはっきりしている。
 不必要な事業を仕分けして、それらを縮小・廃止する。
 でもって、無駄な出費を抑え、不要な作業を駆逐し、蛇足を切除し、トマソンの首を切り、屋上屋を爆破する。
 
 素晴らしい。
 個人的には、大賛成だ。

 いや、正直に申し上げれば蓮舫議員の口のきき方には抵抗があるし、彼女の顔つきの険しさには反発を感じる。
 
 が、それはそれとして、私はどうやら彼女の側の人間なのである。

 つまり、世の中の人間を、非常に大雑把に「捨てる派」と「捨てない派」に分類するのだとすると、私は明らかに前者なのである。

 さよう。私は読み終わった本はほとんどその場で捨てる。着られなくなった服も迷いなく廃棄する。子供が小さかった時の玩具だとかを保管する趣味も無い。ぜひ捨てたいと念願している。嫁さんの反対さえなければ。

 が、おそらく、この問題には正解が無い。
 保管には保管の理由があり、廃棄には廃棄の正義がある。
 というよりも、誰が見ても捨てた方が良いに決まっているタイプの物品や、万人にとって保管しておくべきであるように見える物品は、むしろ少数なのだ。多くのブツは、「捨てるかとっておくかは、趣味の問題」で見解の分かれる、どっちつかずのブツなのである。

 おそらく、事業仕分けのマナイタに上げられている財団法人やハコモノや事業も、「どこからどう見ても明らかに不要」なものは、そんなに多くはない。「見ようによっては不要だが、別の見方をすれば必要な側面もある」ぐらいな事業が大半であるはずだ。

 それでも、「せめて明らかに不要なものだけでも捨てたら、それだけでも家の中がずっとすっきりするはずだろ?」と、たとえば廃棄派である私などはそういうふうに考える。
 が、収納側の人々は、総論で賛成しても、各論のステージでそれらをことごとく覆しに来る。
 継続性だとか、人情だとか、ソフトランディングだとか、経緯だとか習慣だとか、そういうことを言って、ダム防衛の理屈を積み上げる。そう。彼らにとって、人生はダムなのだ。

「あ、それは捨てちゃダメ」
「えっ? っていうか、これ去年のカレンダーだけど?」

 こういう時、議論は無駄だ。
 こういう時に議論をするのは、結婚して間もない夫婦か、離婚まで間もない夫婦か、いずれかだけだ。

「だって、書き込みだらけだぞ」
「書き込みがあるから捨てられないんじゃないの」
「意味がわからないんだが」
「ほら、たとえば、コンサートの半券とか、捨てないでしょ?」
「捨てるけど?」
「えっ?」
「えっ?」

 そう。コンサートの半券や、思い出の食器や、赤ん坊のはじめての靴を取っておくタイプの人々は、どんなものあれスペースさえあれば、空間の許す限り保管しておこうと考える人々なのである。

「っていうか、そういうことを言ったら抜けた歯みたいなものまでとっておかないとならなくなるだろ?」
「とってあるけど?」
「えっ?」

 そう。切った爪はともかく。そういう人々は、乳歯を持っていたりする。乳歯とともにヨメに来る人たち。われわれは、そういう人々と一緒に暮らしている。

「つまりこういうことか? さんざん着古した服は愛着があるから捨てられない。でもって、着ていない服はまだ着てないんだから捨てられない。ついでに時々着る服は時々着るんだから捨てられない、と」
「そうよ」
「じゃあ、読み終わった本は読んだ本だから捨てられなくて、読んでない本はまだ読んでないから捨てられないわけか?」
「当然じゃない」
「っていうことは、捨てる本っていうのはどういう本だ?」
「同じ本が2冊以上あるとか……」
「なあ。それ、オレの書いた本だけだぞ」

 さよう。議論をしても無駄なのである。
 捨てない人たちがモノを捨てない理由は、廃棄派である私から見れば「そこにそれがあるから」みたいなものなのだ。

「あのさ。さっきからの言い方を聞いてると、ヒトから貰ったモノは頂き物だから捨てられなくて、自分で買った物は自分で買ったものだから捨てられないと、そういう話になるぞ」
「とにかく私が言ってるのは、必要とか不必要とかだけで決めるわけにはいかないってことよ」
「必要と不必要以外に何があるんだ?」
「必要のことを言うんなら、そもそも私たちが一緒に暮らしている必要があるのかって、そういう話になるでしょ?」
「……だからそういうことを言うなよ」
「あなたが言ってるのはそういうことよ」
「つまりアレか? どこからどう見てもクソの役にも立たない20年前の楽譜だとか、この先どんなことがあっても絶対に流行のサイクルが戻ってくるはずなんかありゃしないパンタロンスーツみたいなものを永遠に保管し続けることが、同居の条件だということか?」
「そういうものが私には必要だってこと」

 さよう。必要というのは非常に難しい概念だ。
 だから、蓮舫議員の言い方についても

「無慈悲だ」

 と考える人と、

「痛快だ」

 と考える人がいる。
 私個人は、「痛快だ」と考えている。無論、考え方としては、であって、あの言い方そのものは、やっぱりあんまりケンがあるのもなあと思うわけだが。

*   *   *

 たとえば、新しいパソコンを買う。
 と、古いマシンは、とりあえず不要になる。
 そういう場合、私は、古いマシンをベランダに出しておくのだが、この処置は非常に評判が悪い。

「ねえ、古いマシンがベランダに出てるけど?」
「あいつの新しい勤め先だよ」
「ひどいんじゃない?」
「何が」
「だって、この6年間毎日役に立ってくれてた相棒でしょ?」
「いや、むしろこの2年ぐらいはむしろ介護してたようなものだよ」
「介護してたにしても、新しいマシンが来たらその日にベランダ行きなわけ?」

 冷たく思えるかもしれない。
 しかし、これだって私としてはかなり手加減をしているのである。
 その日のうちに捨てないだけでも、かなり温情をかけているということだ。
 わかりにくいだろうか。

 以下、ベランダについて、説明する。

 私はコレクターではない。
 だから、基本的に身の回りにあるブツは、「未整理なゴミ」だと考えている。
 雑誌も、資料も、3年以上前の年賀状や手紙やその他の書類のタグイも、基本的には、時期が来れば捨てることにしている。
 思い出?
 ははは。記憶はアタマの中に保管しておくべきものだよ。私が忘れたら、すべては失われる。世界は私の記憶でできている……というのは言い過ぎだが。

 そんな私でも、たとえば、サッカーやボクシングの古いビデオは一応保管している。
 あらゆるものを捨てているわけではない。すぐに決心が付かないものだってある。

 で、ベランダが出てくる。
 私は、ベランダを、「捨てるもの」と「保管するもの」の中間領域にある「暫定保管モノ」をテンポラリーに収納しておくための空間として利用しているのである。

 あるいは、もう少し実態に即した言い方をするなら、「執行猶予空間」「未決囚留置場」かもしれない。
 つまり、「いますぐには廃棄しないけれども、いずれは捨てるつもりでいる物品」を、野積みにしておくわけだ。
 
 で、ベランダにしばらく積んでおくと、古いテレビやモニタやレーザーディスクプレーヤーは、文字通り死ぬ。というのも、風雨に当たって、故障してしまうからだ。ビデオはカビが生え、再生不能になっていく。

 それが狙いでもある。
 未練を断つための手続き。
 後期高齢マシン年金制度。
 いや、待ってほしい。私とて、はじめからこういう人間だったわけではない。

 社会の中の人間は、性分よりも役割に忠実な人間になる。
 どういうことなのかというと、共同生活は、人間に機能を帯びさせるということだ。

 夫婦でも親子でもあるいは学生同士の一時的なルームメイトであっても、複数の人間が限られた空間を共有した暮らしをすると、必ずやどちらか一方が廃棄推進事業者になり、残りの一方が保管請負人の役割を担うようになるものなのだ。

 例えば、ここまででお分かりの通り、私のような廃棄主義者と一緒に暮らしている人間は、なぜか保管主義者であったりする。

 これは非常に神秘的な傾向だと思う。
 無論、生まれつきの傾向というのはある。
 が、たとえば、二人の「捨てる派」が一緒に暮らすと、二人の捨てる派のうちの、より捨てる傾向の薄い側の人間が、保管派にまわるようになる。

 二人の保管派が共同生活をした場合でも同じだ。どちらかが廃棄を言い出さないと空間は管理できず、空間の管理が決定しないと生活はドライブしないからだ。

「おい、先月号のアスキーはどうした?」
「捨てた」
「捨てた? お前が?」
「ああ」
「買ったのはオレだぞ」
「そう。で、捨てたのがオレ。何か問題があるか?」
「っていうか、どうして捨てる?」
「だって、読み終わっただろ?」
「お前は読み終わった本はその場で捨てるのか?」
「っていうか、お前は食べ終わったメシをずっと腹の中にためておくのか?」

 かように、捨てる側の人間は、その廃棄傾向をより苛烈な方向にシフトし、一方、そういう人間と空間を分かち合うことになった人間は、保管・収納・蓄積に心を砕くようになるものなのである。

無論、家具や食器の収納・廃棄と国政に関わる事業の継続・廃止を、簡単に同一視することはできない。
 が、ここには大きな類似性がある。
 収納or廃棄が、世代の問題でもあり、都市化の問題でもあるということも含めて、両者には共通点が多い。

 収納・廃棄の問題を、時系列に沿って考えてみると、より古い世代の人々は、より収納を重視する傾向が強い。同じ人間でも、年齢を重ねると収納に重心を置くようになる。

 たとえば、私の母親の世代の人々には、広告紙の裏側が白いとそれだけで捨てられない人々が一定数含まれている。

「もったいない」

 というのがその理由だ。だから彼女たちは、イチゴのパックやラップの芯や釜飯の空き釜や納豆の藁苞も、簡単には捨てない。相棒を失った急須の蓋や割れたどんぶりのカケラも。当然じゃないか。あらゆる物品には意外な利用法がある。おばあちゃんの知恵袋には、そういう知識がいっぱい詰まっている。

 ほんの50年ほど前まで、そうしたものは、十分に有効だったのだ。イチゴのパックは、軽くて水が漏れず中味の見える理想的な容器として、非常に重宝されたのである。どうしてそんな便利なモノを捨てることができる?

 捨てる人間がいるのだとしても、そういう役に立つものを軽んじる人間は、少なくとも息子のヨメには迎えたくない、と、彼女たちはそう考えている。息子が役立たずであるのだとしても、だ。

 とにかく、彼女たちが若かった頃、それほど、日本は貧しく、物品は希少だった。

 だから、今おかしいのはおばあちゃんではなくて、時代の方なのだ、と、そういうふうに彼女は考えている。説得は不能。結果、日本には一部屋を除いてモノで一杯になっている一軒家がいっぱいある。そういう家にはご老人が一人で住んでいて、ある日お亡くなりになると、2トントラック何台分かのゴミが出る。

 今、「もったいない」という言葉の意味は、スペース効率を語る時の用語になっている。

 たとえば、着なくなった衣類の詰まった箪笥や丸めて立てかけてある絨毯を保管するための部屋に家賃を支払い続けることは、どう考えても不経済だし、そういう暮らし方は「もったいない」のである。

 そういう人々にとって、日常的な家具やツールとして利用されている以外の「収納」されている食器や書類は、「廃棄」という現実から逃避しているがために生じている、憎むべき空間圧迫物件ということになる。

 そう。捨てないという判断は、一見、判断であるように見えて実は、不決断に過ぎない。
 収納というのは、捨てる勇気を欠いた人間が、廃棄に伴う責任と心理的責任を先送りにしているために生じている、一種の停滞なのである。

 彼らは廃棄推進派である自分たちを、若く、進取の気質を持つ、成長過程にある、過去に拘泥しない人間であると考えている。そういう彼らにとって、収納されている物品や、前例踏襲で引き継がれてくる業務は、チェンジを否定する悪弊そのものであるように見える。

 同じ問題を都市と田舎の対比で見比べてみると、地方の暮らしはどちらかといえば保管に向いていて、都市の生活はより強い廃棄圧力を伴っている。簡単な話、地面の値段が高いというそのことだけでも、保管は不経済になるからだ。かくして、保管派と廃棄派は世代抗争、地域間抗争の色合いも帯び、そのうち廃棄派の合理性そのものが、保管派にとっては我慢ならなくなってくる。

「あのさ。このクマだけどさ」
「プー四郎が何か?」

「うん。計算してみたんだけどさ」
「何を? プーちゃんたちが何かした?」
「いや、何もしてない。というよりも、この何もしてない動かないクマを保管しておくための面積に対して、ボクたちが年間いくらの家賃を払っているのかを計算してみたってことだよ」
「で?」
「キミのクマたちは、このマンションの3部屋のうちの一部屋の約4分の1を占有している。ってことは、15万円の12分の1の12カ月分だから、ざっと考えて年間15万円分の負担を強いてるわけだよ」
「だから?」
「……いや、それだけだけど」
「あなたがそういう計算のためにアタマを使う分の労力がいったい私の生活をどれだけ害してるかについて計算してみたことある?」
「……つまりわかってほしいのは、東京で暮らすっていうことは、ちょっとした空間のいちいちに料金が発生しているということなんだ。キミの実家みたいな蔵があるみたいなウチとはハナシが違うんだから」
「あっそう。じゃあ、あなたも少しやせたら?」

*   *   *

 蓮舫議員の切り口上は、印象として、非常にきびしいものがある。
 が、切り口上で言わないと伝わらないこともある。

 そういう意味で、私は彼女の立場を支持する。
 蔵に押し込んであった問題を日にさらすことは、良いことだと思うからだ。あくまでも、総論としては、ということだが。

 各論としては、棚上げにしておくべきものはもちろんたくさんある。
 たとえば、蓮舫議員について好きか嫌いかを問われた場合の回答について、私はそれを留保しておこうと思う。
 いつの日か、気がつくと私は彼女と並んでベランダに出されていたりするのかもしれない。
 それまでは黙っていた方が良い。
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