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鎌倉時代を語ろう


鎌倉幕府の頃の総合スレです。源氏から北条氏へ。

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[27] 書記長

2018/6/23 22:43

>>26

実務を担う下位者がその実力をもって上位者をその地位から逐う、又は上位者の地位はそのままに実権を奪う。こうした下克上は縷々見られる現象だ。
細川京兆家における三好長慶、尾張守護代織田家における織田信秀、越後上杉家における長尾為景。彼らは実務者の立場から人脈を広げ、実力財力を蓄え、遂には主家を凌ぐに至った。

鎌倉幕府初代執権、我等が北条時政はどうか?

時政は確かに頼朝の舅として、また旗揚時からの頼朝与党として活躍してきた。もちろん、頼朝陣営の中でもその立場から重んじられてはいる、しかし、それで何かの役目を負ったりしたのかと言えばその形跡が無い。初期にはむしろ大兵力を擁する千葉、上総氏の意向が重要視されている。これは当然と言えば当然の話で、行政組織作り云々よりも実効支配地域を拡大する事が優先されたからだろう。頼朝の舅とはいえ、北条氏は武士団としては小規模だからだ。しかも1182年の“亀の前事件”で伊豆へ帰ってしまい、その後の3年間は消息が良く分からなくなってしまうのだ。これではとても組織の実力者からは程遠い。組織作りにしても、京下りの大江広元らが中心となったから、時政の出番は無い。
ただ、この間に武田義信失脚に伴って駿河守護になった形跡はある、だとすれば、本貫の伊豆から駿河方面へ影響力を扶植していた、と見る事はできる。

次に時政が資料上に現れるのは、義経・行家事件で京都守護として上洛する時だ。4ヶ月の滞京中に“文治の勅許”に付いて交渉に当たり、各種の裁判では「理に叶った裁き」と評判を取った。にも関わらず彼はまたもや動きを見せなくなってしまう。


時政の活動がようやく本格化してくるのは実に1193年、富士の巻狩で工藤佑経が横死してからの事になる。(続く)



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[26] 書記長

2018/5/23 20:14

>>25

右近衛大将となり政所を開く権利を得、諸国総地頭職ならびに諸国総追捕使になり諸侍を任意に地頭職に任免する権限と軍勢催促の根拠を持ち、頼朝は武士たちを御家人として編成して行く。
奥州合戦を戦う事で源頼家と家人達の歴史を再現し、鎌倉殿と御家人の紐帯を堅固なものに仕上げて逝ってしまう。頼朝の残したものは御恩と奉公の仕組みとその根拠、そしてそれらを運営する組織(幕府)だ。


その組織の事実上の主宰者として立ち現れて来るのが北条時政だ。時政が他の有力御家人を倒して権力を握って行く過程もまた、後世のそれとは様相が異なるものだと思っている。次回からは北条氏の奪権闘争を追ってみたい。



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[25] 書記長

2018/5/22 22:11

>>24

頼朝は、武士のルールの裁定者ではあってもルール自体の根拠ではなかった、というところまで論じた。

頼朝は、関東に独立の政権を立て、京下りの文官達の協力を得て組織の形を整え、機を掴んで京へと進む(頼朝自身の上京はさらにこの後の事だが)。木曽義仲を斃し平氏を討ち、両者の没官領の地頭職任免権を手中にした。弟義経の追討を端緒として、諸国総追捕使・総地頭となった。

上記二職こそが鎌倉幕府の重大な権限、その源泉であって、それに比べれば前右大将や将軍職などは付けたりでしかないと言ってもよいと考える。この二職の機能が保全されていたからこそ、頼朝没後から摂関将軍実現までの間の混乱期にあっても幕府はその機能を保ったからだ。事実、将軍位空白期間はあっても、二職が機能を喪失していた時間は無い事がそれを裏付ける。



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[24] 書記長

2018/5/21 21:44

>>23

『戦の勝者は敗者の全てを我が物とできる』この不文律、或いは法があればこそ武士たちは源平それぞれに味方して戦った。

平穏な世の中であれば、地頭職や下司職を得てその得分を受ける事があったとしても、それは永続的な物ではない。本家、領家の都合次第でいつ失ってもおかしくない物だ。また、追討使の役を果たしたとしても、これまた中央の政治情勢によっては僅かな恩賞で我慢せざるを得ない事も屡々あった。
ところが頼朝に従って、たとえ中央から見れば反乱軍であっても戦に参加し、勝てば堂々と所領を獲得できるとなれば、平氏政権下で逼塞していた武士たちが勇み立つのも無理からぬところだ。頼朝もそのニーズに的確に応えた。

中央の貴族たちの意向に振り回されず、自身の働き次第で、頼朝はそれに相応しい実利をもたらしてくれる。これが治承・寿永の内乱における(反乱軍側の)武士たちのモチベーションとなっていた。
ただ、この回路・仕組みの頂点に立つ頼朝は、謂わば武士のルールの裁定者ではあってもルール自体の根拠ではなかった。これが源氏将軍が三代で絶えてしまった理由だろう。ルールを、少なくとも公正に機能させてくれさえすれば、源氏の血統である必然は無い。それこそ執権でも尼将軍でも構わないのだから。



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[23] 書記長

2018/5/18 21:36

>>22

少し脇道に逸れる。
起請文という物がある、甲乙の間での約束事を熊野牛王という特別な紙に書き記し、その履行を神々や諸仏を証人として誓う形式の文書だ。
挙げられる神仏は実に様々、通常複数の名を挙げるのだが…関東では実に面白い事に、天照皇大神の名を起請文に用いないのだ。

他の西国の神仏の名は、関東以外で書かれた起請文のそれと大差無い、例えば住吉、あるいは石上など。ところが天照皇大神の名を関東人は用いない。その理由を一書はこう書いている。天照皇大神は『嘘ヲオゝセラルル神』だからだ、よって『関東ニテハ御名ヲ用イザルナリ』と。

ここを見ても、関東の武士たちは鎌倉幕府を通じて自分達の王国を建設したのだ、という自負を読み取る事はあながち不思議ではないと思う。この底流は現在でも存在していて、雑誌の記事などで東西の違い、または東京VS大阪といった主旨の企画は一定の需要がある。



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[22] 書記長

2018/5/17 22:12

>>21

関東武士団のうち、頼朝側に立った武士達の胸中には、平家打倒や源氏への報恩、まして幕府建設などといったものは無かったのではないか。

富士川合戦に勝利した後、頼朝自身はこのまま進軍を望んでいたが、上総広常と千葉常胤は佐竹討伐を主張、頼朝に京への進軍を諦めさせている。これは関東の基盤を固めるため、というよりも自分達の当面の脅威を除くための主張だった。事実、佐竹氏は千葉、上総氏とは所領や職を巡って競合関係にあった。あくまでも優先されるのは、自身の勢力の拡大であったのだ。
それは平家側に立った武士団でも同じ事で、畠山重忠などは石橋山合戦の際、北条時政の、源氏累代の家人でありながら頼朝に敵対する事を詰られ「恩こそ主よ」と返している。今現在、現実に所領や職を保証してくれる者こそが主なのだ。頼朝・時政側の主張する“源氏累代の恩”というものはキャンペーンでしかない、上総広常と千葉常胤にしても平家政権下で冷飯を食っている側だから頼朝の味方に参じた訳だ。
こうした行動原理は南北朝期にも見られ、遥かに下って藤堂高虎の「七度主を変えねば武士ではない」との言葉に生きている。

武士のこうしたバイタリティ、或いは牙は、江戸中期、朱子学の隆盛をもって初めて抜き去られるのを待たなければならない。

武士たちは今日の我々が思うよりもずっとリアリストであって、マキャベリズムの実践者だったのだ。



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[21] 書記長

2018/5/15 7:17

>>20

最初の幕府鎌倉幕府が、あとに続く室町幕府、江戸幕府と際立って異なる点は、幕府が滅び去るまで将軍の血統が続かなかった事、を挙げたい。

室町・江戸両幕府は、その最後まで始祖の血統を(政治的思惑による駆引き、闘争はあっても)歴代将軍にしている。摂関将軍まではかろうじて源頼朝と繋がりがあると言えたが、親王将軍はそうではない。将軍の血統に(あまり)重きを置かない、というのは皆さんもう少し注目しても良い点だろう。これが「ムーブメント」と表現した一つの理由。



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[20] 書記長

2018/5/11 21:59

過疎ってる…というより廃村だな


「鎌倉幕府というのは平将門で一度顕になった関東独立国の夢を、貴種源頼朝を利用して達成したムーブメントだった」

という足跡を残しておいてみる(-ω-)



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[19] 匿名

2010/4/16 1:48

「神風」が後に与えた影響って大きいね。



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[18] 匿名

2010/4/9 4:26

私は、この古代の平安末期から中世へ(ちょっとスレチな時代含めちゃってすみません)って時間の流れの中で
保元の乱から平治の乱?治承・寿永の乱を経て承久の乱って続いてく中での
時間と世代を越えてく人と人の繋がりにすごい魅力を感じるかも
とっても魅力的な時代ですよね



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